novelsのブログ

お題にもとづいた短編小説やふと思いついた小説を不定期更新します

いつか来たアメリカへ





こんにちは。今日はお題にちなんだ短編小説を書きます。
みじかく書く、が今日のテーマです。


今週のお題「海外旅行」




いつか来たアメリカへ


 わたしの両親は、アメリカに行く飛行機の中で知り合ったという。今からもう三十五年も前のこと、当時は海外旅行に行くなんてすごく「特別な」ことだったのだと両親は言う。

 初めてその話を聞いたのは小学生のとき。学校の作文で、おとうさんとおかあさんのことを書きなさいと言われて、喧嘩ばかりしていますとか、たまに離れて生活していますと書くのがいやで、なにか別のことを書こうと思って、初めて会った場所はどこ?   と聞いたのがきっかけだ。

「アメリカ旅行の、行きの飛行機の中でね、わたしと友達の塚本さんが並んで座っていたら、後ろの席から靴が前に滑ってきたの。あら、靴だわと塚本さんと笑って、後ろの席の人に返してあげたのよ。それがお父さん」

 父も友達と二人での旅行だったらしい。今考えると、同じツアー会社を申し込んだのだろうと察しが付く。しかし当時の両親にとっては、周りより一歩進んだ考え方を持って、同じような友人を探し、旅行を決行させたのだから、行動力のある人たちだったのだろうと思う。

 その後アメリカで、父と母とそれぞれの友人は意気投合し、一緒に行動したのだという。旅は人を開放的にさせるというが、本当にそうなんだと思った。そこから両親が結婚にいたるまでは、かなりスムーズだったという。


 しかしその後が大変だった。フランス料理のコックをしていた父は、自分の腕を磨くことを人生の信条としていた。娘のわたしから見ても、月に何日も休んでいないのがわかった。そして休みの日も、美味しいと評判のうなぎの店、焼肉、中華の店などを回るのだ。美味しいものを食べるための外出。それが我が家の「おでかけ」だった。

 父は感情の起伏の激しい人だった。調理場の仕事は女には無理(させたくない)、という気持ちからなのか、オムレツの作り方ひとつとっても、弟には教えるのに、わたしには教えてくれなかった。悔しいから父よりうまく作れるように、隠れて何度も練習をした。ある日の朝、父にオムレツを出したときはただ、唖然としていた。

 わたしは父が大嫌いなのに、父の料理をする姿は美しいと思った。世の中にたくさんある仕事の中で、コックという仕事を特別に尊敬するようになっていた。
 
 わたしが小学生のときは、父と母はよく喧嘩をしていた。父が家で料理をすると、必ず母に暴力的な言葉を浴びせ、「こんなフライパンでうまい肉が焼けるか!」等、家庭は険悪な雰囲気になっていた。

   わたしが中学生になると、父と母は別々に暮らすようになっていった。「父が単身赴任」というのが外向けの理由だったが、あのとき父と母の間には埋めようの無い溝があったのだといまだに思っている。


 わたしは母と弟と三人で暮らすようになった。食卓には、母の料理だけが並ぶようになった。父のそれと比べると、母の料理は目立つところも特筆すべきところもなく、わたしは食に対する興味を失ってしまった。

   父への憧れからか、わたしが選ぶアルバイトはほとんど、料理をつくる仕事だった。パスタやオムライス、肉料理に魚料理。わたしは父ほどの才能こそ無かったが、料理の段取りだけは誰よりも早かった。父の料理をする姿を思い出すと、いつも無駄がない。わたしはそれを再現しようと、調理場では常に、料理という行為に敬意を持ってつくっていた。



 そんな実家を十八で出て自活を始め、やがて六歳年下の弟も実家を出た頃から、父と母の間で何があったのかわからない。わからないのだが、二人の間にやさしい空気が戻ってきた。何を埋めようとしたのかはわからないが、実家にはいつもたくさんの動物がいた。犬に猫、うさぎや亀もいた。たまに帰る実家は、そのたびにあたたかくなっているのがわかった。

 実家はたくさんの動物がいるわりに、いつもきちんと片付いている。家具はみすぼらしく見えてもおかしくないほど古いものばかりなのに、物がとても少ないからか、すっきりとした静謐すら感じさせる。服も洗い替えを考えた最小限のものしか持っていないようだ。その生活を、わたしは美しいと思った。

 実家の変化は料理にも現れていた。母の料理がとても美味しくなっていた。「適当につくっている」というが、きちんと出汁のとられている煮物は最高のおかずである。特にがんもどきは絶品で、口に含んだ瞬間、熱くてキュッと出汁のきいた煮汁が口中にじゅわっと飛び出してくる。塩分控えめで素材の味を生かした野菜のおひたしはすがすがしい季節の味がする。わたしにとっての「おふくろの味」は父の作ったバターたっぷりのシャリアピンステーキ(たまねぎをキツネ色になるまで炒めて醤油ベースのソースに仕上げてサーロインステーキにのせたもの)だったので、この食卓の様変わりには驚いた。

 父は「家では料理をしない」と言い切っていた。「お母さんの料理が充分おいしいから」と自然に言っていることに驚いた。長い時間をかけて歩み寄ったのだろうか。

 父の変化はそれだけではなかった。仕事をフルタイムからパートタイムに変えたと言っていた。コックの仕事は何十年もやると体を壊す、過酷なものだったのだろう。五十を過ぎたあたりから、父の脳や心臓には様々な疾患があらわれた。そのひとつひとつを、母と二人三脚で乗り越えてきたのだという。あるときの心臓の手術は八時間にも及んだが、そのとき母はずっと、ずっと手術室の前で待っていたという。その姿を思い浮かべるとき、わたしは二人の間に流れる空気の深さを思う。


 母の祈りが通じたのか、父は回復した。普通に食事ができるまでに。歩けるまでに。小旅行ならできるまでに。

 
 驚いたのだが、それから両親は二人で、いろんなところへ旅行に行くようになっていた。温泉に浸かりにいったり、ただふらっと東京へ来てみたり、二人の旅行がまた、あたらしいスタイルで始まっていった。

 旅から始まって、また旅へともどっていった両親。

 今は海外に行くのは難しいのかもしれないけれど、実はふたりが「世界一周旅行」のために貯金をしていたことをわたしは知っている。父の体調のよいときを見計らって行くつもりなのかもしれない。再びアメリカの大地に降り立ったとき、ふたりの間にどんな思いがよぎるのだろうか? 


 人生には、つらいこともあるけれど、それを乗り越えた後には計り知れない喜びがある。このことをわたしは両親から教えてもらった。不器用で短気で破天荒なところがあったかもしれないが、わたしの自慢の両親だ。

 いつかふたりでまたアメリカに行ってほしい。写真を見せてほしい。初めて行ったときとどんなふうに違った景色が見えたのか、それを聞くのが目下の楽しみだ。


☆おわり☆

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【弟9回】短編小説の集い 参加作 「あの瞬間を胸に」





こんにちは。【弟9回】短編小説の集い に参加させていただきます。
初参加です。極限まで緊張しながらの投稿です。


初心者のため、ほぼ自分の経験を文章にしている感じです。
アドバイス等、ぜひお願いいたします。

お読みいただけたら幸いです。(一人称ゴメンナサイ)


お題:雨

novelcluster.hatenablog.jp






あの瞬間を胸に



 どうやったらあいつに好きになってもらえるのだろう? 目下の悩みだ。

 あいつは学校でも有名な人気者だ。背は160センチくらいで男子にしては小柄。短髪黒髪で顔にはそばかす。お世辞にもハンサムとは言えない顔立ちだけど、自信にあふれた表情でいつも笑ってる。中一から中三の今までずっとバスケ部、今は副部長をしてる。あいつのまわりにはいつも人が集まってる。


 中三でクラスが一緒になり、偶然にも二回連続で隣の席になった。一回目のときは「よろしく!」ってあいつの方から距離を縮めてくれた。六月に入り二回目の席替えで、また隣の席になったときは「また篠田の隣だ、俺ラッキー!」と言われた。まわりから冷かされるのが面倒くさかっけど、またよろしくねって言ったら、心がじんわり、あたたかくなった。

 わたしは特別美人でもなくて目と鼻がちょこんとついただけの顔。肩につく髪は黒いまま。勉強は普通でスポーツもまあ普通。小学校のときは太っていたのがコンプレックスだったが、中学に入ってするすると背が伸びて、今はひょろりとした体型になっている。(生理は中二のときに来ている)


 初めてあいつを「男子として」意識したのは体育の授業だった。体育館で、男子がバスケをしていた。あいつは一人、際立っていた。動きがものすごく早い。相手チームの動きが止まってみえた。素早い動きの間中、楽しそうな笑顔をたまに見せる。相手チームをかわし、スリーポイントのラインで一瞬飛び上がり、ジャンプシュート。シュッという音をたててボールはネットに吸い込まれた。男子の歓声と「あーあ」という声が混ざる。

「淳(じゅん)いたら絶対勝てねーよ!」

 バスケ部で鍛え上げられた淳のプレイにはついていけないようだ。

 わたしはそのときから、病気になったように淳のことをこそこそと見つめるようになった。席が隣なので堂々と話すことも多かったが、そういう時はすごく素っ気なく、無表情になってしまう。もう普通に話せないかもと思った。

 
「篠田、それ好きっていうんだよ」

 もやもやした気持ちを友達の京子に話したら、ふたつ結びの黒髪を弾ませながら、京子は明るい声でそう言った。京子はやさしくてお茶目で底抜けに明るい。ちょっとカニみたいな笑顔がかわいい。中二のときに一緒のクラスになって仲良くなった。京子といると自分も明るくなれる気がする。京子は「わたしは好きな人、いないけど、淳を好きになるのはわかる。あいつ、優しいもんね」と言ってくれた。そう、淳の優しいところもバスケ一生懸命なところも、ぜんぶ、すきなんだ。
 


 六月も中旬を過ぎたころ、クラスは受験の空気が漂い始め、授業中に受験用の勉強を始める子もいた。わたしは、中学入学と同時にこの町に越してきた。そして中学卒業と同時にこの町を離れることが決まっている。高校はこの町から遠く離れた学校を受験することになる。受験戦争の蚊帳の外にいる気がした。秋にはみんな本格的に受験モードになるだろうから、そのときはみんなの邪魔にならないよう、好きな本でも読んで過ごそう、そんなふうに思っていた。


「今日は水泳大会の選手を決めたいと思いまーす! 立候補お願いします」
 ある日の放課後ホームルーム。七月に開催される水泳大会の選手決めをしていた。陸上部や水泳部のガチなメンバーがまず名乗りをあげている。目立ちたくて立候補する層も手を挙げた。体育の授業とは別で、お祭り的に開催されるこの水泳大会は、半ばイベントのようなものだった。わたしは泳ぎがそこそこ得意だけど、注目されながら泳ぐのは恥ずかしいので黙っていた。

「自由形出てくれる人、誰かいませんかー?」
 あと一人決まらないようだ。自由形(クロール)は各クラス精鋭が出る可能性があるので、みんな別の種目に立候補してしまったらしい。この状態になるともう決まらない。すでに別の種目に立候補している人が種目を変更したりしない限り、決まらないだろう。早く決めて帰りたいなあ。そう思ってそわそわしていると、隣の席から淳が話しかけてくる。

「篠田、泳ぎ得意だったよね? 出なよ! 応援するから!」
 そう言ってニヤっと笑うと、さっと手をあげて
「俺、篠田さん推薦します! 本人もやるって言ってます」
 なんとも強引な推薦の仕方だ。いいですか? と議長に聞かれ、早く決めたかったのもあり、わたしは「やります」と答えた。

「自由形の選手は篠田さんで決まりました! これで全員です!」
 教室に安堵の拍手が起こって、ホームルームは終わった。

「なんでいきなり推薦したの?」
 淳に少し怒ったように抗議すると、
「去年、別のクラスだったけど篠田、泳ぎ方キレイだったし、多分超速いでしょ」
 一体いつ、見ていたというのだ。わたしは混乱した。このやり取りを聞いて、クラスの何人かが「夫婦喧嘩だ!」と冷やかしに来た。思春期の恋愛はきっと、こういう外野によってなかったものにされていくんだと思った。わたしはからかわれるのが嫌だったから、無表情を保ったまま「まーいいや。帰る」と言い教室を後にした。


 うちのクラスはいいクラスなんだと思う。いじめだ何だと世の中は騒がしいけれど、うちのクラスは適度に明るく、適度に真剣で、適度にお互いの家のことも知っている。地方都市特有の距離感に、一定数の転校組が混ざることによって独特の居心地のいい場所になっていた。学力に関係なく友達グループができているのもいい。受験戦争が本格化する前に、クラスのみんなのために水泳大会でひとがんばりするのも、悪くないかもしれない。

 
 水泳大会までのみじかい期間、選手は順番に、放課後の練習に参加した。練習は週に1~2回しか回ってこないけど、その時間は必死になって泳いだ。わたしは幼稚園から小六まで水泳を習っていたので、そこそこ速いと思う。けれど、他のクラスからどんな精鋭が出てくるかわからない。当日までに少しでも、勘を取り戻して、せめて恥ずかしくない泳ぎをしたい。


 放課後の練習に十回近く参加して迎えた、大会当日。しかし天気は雨。ざあざあと降り続いている。今年の梅雨は遅いらしい。雨のにおいのなか、大会の延期を知らせる放送が響いた。

 翌週も、雨は強く降っていて、今年の水泳大会はもう「延期」ではなく「中止」になった。教室には受験のムードが漂っており、中止について残念がるよりは「中止か」という納得ムードに包まれていた。わたしはすごく残念だったけど、みんなの前で泳がなくて済む、と、もやもやした気持ちをむりに納得させた。


 放課後、水泳大会の行われるはずだったプールに行ってみた。相変わらず降り続いているざあざあ降りの雨の中、傘をさしてプールサイドに立つ。今日もし雨が降っていなくて水泳大会で泳いでいたら、何かが変わっただろうか? 勉強も運動も目立ったところがないわたしだけど、何か変われたのだろうか? 受験シーズンの前にひとつ、節目となるような水泳大会。わたしのなかではとても大切なものだったんだって思い知らされた。

 傘を投げ捨てる。雨は白地のセーラー服をびっしょりと濡らしていき、布地が肌に張り付く。肩まである髪から雨が滴る。

 この町に越してきて今まで、一度だって目立ったことはしてこなかった。淳の中のわたしはきっと「目立たない子」だ。それを変えたかった。このプールで泳いで、泳ぎきって、すべてを変えたいと思ってたんだ。

 それが、かなわない。


「篠田!」

 振り向くと淳がいた。さしていた傘を捨てて、こっちに向かって歩いてくる。誰かに見られたら嫌だ。わたしは後ずさり、プールの反対側に走る。淳はゆっくりと近づいてくる。淳は一瞬だけ空に目をやり、少し笑ったように見えた。

「来ないで!」
「何でだよ?」
「いいから来ないで!」
「……心配だったんだよ」

 心配なんてされたくない。心配されたって何も変わらない。水泳大会は中止なんだ。この雨のせいで。空を仰ぎ見る。飽きることなく雨を落としてくる空は、白く高く遠く、わたしたちにはどうすることもできない力でもって、この町を雨という名の水で支配する。


 「…負けるか!」

 わたしはプールに向き直り、飛び込み台からきれいに弧を描くよう意識して飛び込んだ。一瞬冷たいと感じる水は、すぐに体温と同化してぬるい膜のように体を包み込んでいく。塩素のにおいがすきだ。水に触れる感じがすきだ。淳、わたしは淳がすき。

 25メートルを泳ぎきり、顔を上げると淳がいた。

「お疲れ」

 差し出してくれる手につかまってプールから上がろうとする。服は体中に張り付いていて重いし、水から上がった体が重く感じられてうまく上がれない。淳はかがんでわたしの腰に手を回し、抱きかかえるようにして引っ張ってくれた。

 わたしの中の何かが崩壊した。

 淳にぎゅっと、抱きついた。しゃがみこんだまま体を密着させ、息を整える。顔が見えないから、いつもより話せそうな気がした。


「……泳ぎたかった」
「うん」
「思い出が欲しかったし、淳が、応援してくれるって言ったから」
「うん」
「……あのね、わたしずっと」

 息を吸い込む。消毒液のにおい。雨は降り続き、服の中にしみこんだプールの水を追い出し、わたしたちを雨に染めようとしている。いいたくて、いえない言葉がのどの奥でかたまって、出てきてくれない。変な姿勢で固まったまま抱き合っている淳が、座りなおして、息を吸う音が聞こえた。体を離して、目が合った。


「篠田、俺は篠田のこと、好きだよ」
「えっ」
「何で驚くの?」
「それはないと思ってた」
「何で?」
「淳……人気者だし、わたしは何も、目立つこととか無いし」

 淳は笑った。だいすきな人が目の前にいる。

「顔見ると話せない?」
「……話しにくい」

 顔ごと目をそらしながら、答える。

「……そろそろ慣れようよ」
「むり」
「わかってるけど、言って」
「何を」
「俺はちゃんと言ったよ」
「……そうだよね」

 

 淳はもう一度ぎゅっとわたしを抱き寄せた。耳元でささやく。

「これなら言える?」
「……うん。……あのね、ずっと、すき、だった」

 雨が後から後から前髪を伝って目に入る。泣いているかどうか自分でもわからない。ただ、熱い気持ちが目のおくに集まってきているような気がして、淳の肩に顔をうずめた。




 この日、こんなたどたどしい告白から、あたらしい日々が始まった。

 その日は結局、わたしはジャージに着替えて家に帰り、淳はずぶ濡れのまま体育館に行って部活に出た。その翌日から、なぜかわたしたちは公認カップルになっていて、卒業までずっと一緒にいた。ぎこちない関係から仲良しカップルになった。


 卒業式が終わると、わたしはその足で新しい土地に向かわなければならなかった。クラスのみんなに泣きながらさよならを告げた後、淳が追いかけてきた。わたしより少し背が高くなった淳。おとなになってもずっと一緒にいたい淳。手をつないで歩く、駅までの道。


「わたし、この町が好きだよ」

 初めて人をすきになった町。初めて誰かに「すき」って言えた町。あたたかくて、優しいひとに囲まれて過ごした大好きな町。あの雨の日のプール。あの瞬間を胸に抱いて、これからも進めばいい。何があっても、あの瞬間はきっと、永遠にわたしのたからものだ。

 涙が止まらなかったけど、精一杯の笑顔で「またね!」って手を振り、わたしは駅の構内へと駆け出した。



☆おわり☆


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ほほえみの国へようこそ




今週のお題「海外旅行」


こんにちは。今日はお題にもとづく短編小説を書きます。
少し長くなってしまいましたが、最後までお付き合いいただけましたら幸いです。






ほほえみの国へようこそ



空港の空気というのは、なぜこうも人を高揚させるのだろうか? ずらりと並んだ電光掲示板には、今日のフライトがぎっしり示されている。今日この空港からアメリカに行く人、中国に行く人、オーストラリアに行く人、さまざまな人がいるんだ。普段ひとつの国にこもって仕事をしている自分には、にわかに信じ難い数の便だ。そのうちのひとつにこれから、おれは乗る。

それを思うだけで少し興奮する。

人間は旅をすることを思い描くだけで、高揚する生き物なのかもしれない。単純な物理的距離の移動だけでなく、心も移動する。その料金が含まれているから旅にはお金がかかるんだ。それだけの価値が、旅にはあるんだ。

そうやっておれ自身を納得させる。

続けて十日間も休みを取ることは至難の技だった。営業部のプレイングマネージャーに任命されてもうすぐ五年、おれが動かなきゃ部が動かない。そういう貧弱な仕組みしか作れなかったのは自分だが、せめてもう一人俺がいたら……おれと同じようにクライアントのことを思って動いてくれる人間がいたら……やめよう。せっかくこれから久しぶりの旅を楽しむんだ。こんなことを考えるのは、やめよう。とにかくおれはまとまった休みを取った。

おれがいない間、誰がどうリーダーシップを発揮してくれるのか楽しみだ。これから行く国はアジアの中ではネット環境は良い方だが、それでも完璧ではない。ファイルの確認ができるほどのネット環境は無いだろうし、電話については高額になるため、クライアントにも社内にも「繋がらない」で通してある。非常時にはホテルに電話をもらい、折り返すと伝えてある。

本当の非常時にはそんな悠長な時間差で折り返されても役に立たないことは俺も部のみんなもわかっている。つまり、事実上これはおれが、自分の時間を取り戻すための旅なんだ。

五年間、必死に働いた。文字通り身を粉にして働いた。

その結果、部署が部署らしい機能と売り上げを持てるようにはなったが、その代償としておれは、夜眠ることができなくなり、右耳が聞こえなくなり、ついにはキレやすくなってしまった。

医者には病院に入ることを勧められた。一週間から一ヶ月、隔離病棟で投薬と充分な睡眠を取って回復するようにと。そこまで言われてやっと踏ん切りがついた。おれは、十日間の休暇を取ることにした。そのうち八日間をタイで過ごす。向こうでは、贅沢をしなければそれなりに安く過ごすことも可能だ。五年間使う暇もなく貯めてきた金もあるにはあるが、この金は散財するための金じゃない。

この旅で心を回復させたら、部署のリーダーを新しく立て、おれは補佐役に徹する。引継ぎが終わったらおれは今働いている会社を辞める。そして、四十になる前に会社を興そうと考えている。誰と一緒にやるかも決めている。若いが頭の切れるあいつと、幼馴染のあいつ。以前顔合わせをしたときの感じも良かった。この三人ならきっと、事業を成功に導けるだろう。


搭乗時間の三時間前に空港に来てスタンバっていたが、そろそろチェックインをして搭乗の準備に入っても良い頃だ。おれが乗るLCCのカウンターは空港の中で一番入り口から遠いところに置かれている。事前にウェブチェックインをしてあったので、カウンターですることはほとんど無く、A4で印刷してきたウェブ予約の紙を、かたい横長手のひらサイズのチケットに変えてもらっただけだった。

荷物検査をくぐりぬけ、また時間をつぶし、飛行機に乗る。また少し待たされてやっと飛行機は離陸した。日本とさよならする。感慨深く思った。このまま六時間ここに座っていればタイに着くのか。なんて近いのだろう。こんなに近いのに今までなぜ行かなかったのだろう。

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空港に降り立ち、浮き足立っていた心がすうっと冷える感じだ。肝が冷える。さっき飛行機を降りた瞬間までは楽しかったんだ。しかしなんだこの空港の雑多感は。

両替して、荷物を盗まれないようにして、バス乗り場を見つけるんだ。


こんな脳の働かせ方は初めてだ。海外旅行ってこんなに大変なのか? 仕事で鉄火場も修羅場も経験してきたが、それとはまた違う危うさのある、歯痛のような不安だ。なんとか両替を試みるも、英語もタイ語も練習してきた一割も口から出てこない。なんだこの醜態は。


☆☆☆


両替、バスに乗る、電車に乗るというステップを踏むたび、おれの心は落ち着いていった。取っていたホテルに入る。いかにも繁華街の中のホテルという感じだが、「安くて綺麗で場所も便利」とネットで評判は良かった。チェックインは英語で対応してくれたが、おれは英語もほとんど話せない。日本語なら多少雄弁に語ることも出来るが、慣れない英語ではどうにもならん。イエスの連発でチェックインをする。


ホテルでごろりと横になる。


「着いたなあ」


声が上ずっていた。現地時間でまだ夕方だ。あと数時間は明るいだろう。腹も減っていないし、ひとまず少し休む。動くのはその後でいい。


まどろむような眠りから覚め、外はいい具合いに夜になっていた。うん、腹も減ってきた。おれはシャワーを浴び、外へ出た。ネットで調べておいた夜遅くまでやっていてレートのいい両替商へ行き(不思議なんだが、酒屋の中に両替商があった)、円をバーツに替える。円をバーツに替えるたび、この国での自由を買っているような気持ちになった。


三万円をタイバーツに両替し、用心深くカバンの中に入れ、通りを闊歩する。初日から腹を壊してはつまらないから、ガイドブックで見つけていた「日本人好みの味」と称される鶏丼(カオマンガイと言うらしい)の店に入った。大盛りで…と慣れないタイ語で注文する。ちゃんと伝わった。大丈夫だ。


飯はうまかった。牛丼よりうまいかもと思った。ゲップ、おっと失礼。ここはまた来たい。

腹がふくれたら次は軽く夜遊びだ。あらかじめ調べてあったバーに行く。パッポン通り。響きのいい名前だ。こことカオサン通りくらいは、おれでも名前を知っている。

パッポン通りにあるバーは、合意があれば女を連れ出すことができる場所だ。のんびりするつもりだったが、夜のネオンを見たらおれは若返ってしまったようだ。こういう場所の喧騒は万国共通だなと思う。バンコクだけにな。おっと失礼。



軽い気持ちで「いいな」と思った女を呼んで隣に座らせた。黒髪に彫りの深い顔立ち、まぎれもなくタイ美人というやつだ。ポールを持ってダンスしている姿は妖艶ですらあった。一瞬気後れしそうになるが、女もおれが気に入ったようで、言葉なんて気にならないくらい肌と肌を近づけて話してくれる。これ以上ここで話していても仕方ないと思い、おれは店に「紹介料」日本円で五千円相当を支払い、女を連れて店を出た。ホテルの部屋に女と帰る。


生で見る女の裸体は想像をはるかに超えるみずみずしさと力強さだった。一撃で俺を魅了した。そのあとのことは流れに任せるままだ。あんなに燃えたのはいったいいつ以来だろうか? 射精の瞬間はいつだって無になれる。よほど「失敗した」と思う女でない限り、いつも一緒だ。無だ。


おれの人生一の恥ずべきことは、子どものころに猫をいじめたことだ。クラスの体のでかいやつにいじめられて、「自分より弱いものをいじめるのがこの世の中か」と思って自分より弱い猫をいじめた。

すぐにいやになって、やめた。おれはまともな人間でありたかった。



翌日も同じようなバーに行って女を買った。昨日より余裕がうまれた気がして、ホテルに着いた瞬間押し倒すようなことはしなかった。女と会話を楽しみ、ベッドへ行く。大人の楽しみ方になってきた気がした。余分なプロセスを追加した分、ベッドで女の体をまさぐる手は激しさを増した。



こうして休みを取ってみると、日本にいるときのおれは、縛られているなあと思った。ルールやマナー、大衆の意向にだ。電車の中で客先から電話がかかってきたとき、小声で出ただけでなぜ大衆はあんな目をするのだ。眠っていて起こされたかのような非難の目でこちらをにらみつける。「今電車の中なので、十分後に折り返します」とささやくような声で話しているだけなのに。



その翌日は、ナンパというか、普通のバーで男待ちしている女に声をかけてみることにした。ここでもおれはめちゃくちゃ綺麗な女と簡単に仲良くなることができた。目が合って笑いかけてくる女の顔はいい。

 

女をただ抱くだけでなく、抱くまでのプロセスを楽しむのもいいものだ。結果として金を渡すとしても、店が仲介する女より掛け値無しでおれと向き合ってくれている気がした。相手もおれのことが気に入っているという余裕からか、女との行為はねちっこいものに変わった。女がイクまであそこを舐めたり、お互い楽しめる夜にしようとした。

 

その日も次の日も、おれは女を抱いた。タイに来て六日目、抱いた女の数はここで過ごした夜の数と同じだった。昼間の観光も女と行くことがあったくらい、女には困らなかった。

 

正直、帰りたくない気持ちは大きかった。それを払拭するために、最後の夜は最高の女を抱いてから帰ろうと腹を決めた。目星はついている。何度かバーで最高にいい女がいるのを見かけた。美人なんて表現じゃ足りない。体の線はしなやかで特に胸と尻の美しさに目をうばわれた。手足はすらりと長く、顔はエキゾチックだが化粧がきつすぎず、元の顔が美人なのがわかる顔立ちだ。バーには遊びに来ている風で、男漁りをしている雰囲気は無い。

おれのことは覚えてくれているだろうか? いつも目があってもすぐにそらすあの女を、何とかして手に入れたい。ほほえみの国最後の夜、おれはバーで女を探した。


女はいた。優雅にすわっている。今日も一段と綺麗だ。おれが女を目で追っていると、別の女が声をかけてきた。いつもならこの女と飲んでホテルに流れるところだが、今日はそういうわけにはいかない。あの特別な女でなければいけない。

覚えたてのタイ語で「人を待っているんだ」と伝える。チッという舌打ちが聞こえたが、視界が広くなりあの特別な女をまっすぐに見ることができた。もう邪魔が入って欲しくない。おれはあの女に、声をかけた。「一緒にのまないか?」


女は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに顔をほころばせた。うそっ、みたいな声を出した。想像していたより高い声が美貌に似合わず愛らしかった。「わたしはノイ」と名乗った。ノイは恥じらいながらもおれに興味を持っているようすでぽつりぽつりと話しかけてきた。

話し始めたらすごく気が合った。バーに入ってから二時間ほど過ぎたころ、おれはノイの腰を抱き、二人でホテルに帰ることに成功した。


「うれしいわ」
「うん」

鼻先が何度か付くようにささやきあい、ベッドに倒れこむ。ノイの体は適度な湿り気でもっておれの肌を刺激し、ノイの大きな瞳はおれを魅了し、ノイのかすれた声は息ひとつでさえ愛おしい。


その日の行為は今までの誰よりも時間をかけた。ノイが気持ちよくなっている姿が見たい、と執拗に乳首やクリトリスを責めた。恥ずかしがらなくていい、おれに可愛い声をもっと聞かせてと囁いた。

ノイはイクまでに時間のかかるタイプだったが、おれは丁寧に愛撫して、イかせた。おれの腕の中で痙攣する姿は愛らしい。舌も使って責めてやることにした。連続でイかせ続けた。指先まで震わせるノイの美しい姿は、おれを満足させた。

ノイの中がトロトロに濡れているのを確かめ、挿入の体制になった。ノイは荒い息で「まって、わたしにもさせて」と言ってきた。口でしようとおれのモノに顔を近づけてくる。気持ちは嬉しいが、今夜はお互いに気持ちよくなるための夜だ。だからわざわざ口でしなくていい。特に君はそんなことしなくていい。おれの腕の中で何回でもイクところを見せてくれて、最後に一つになれれば、他に何もいらないんだよ。おれは優しくノイを制し、くちづけをしたあと、一気にノイを貫いた。


二人の結合部分はこの上ない愛と快感をもたらした。最初は動いていなかったノイの腰も、徐々に快感を求めて動き出し、おれの下でいやらしくくねり始めた。おれが腰を突き出すたびにノイの中はぎゅっと俺自身を適度に締め付けてくる。やっぱり最高の女だ。何度も早く突き、ゆっくりと引き抜く。ノイの苦しそうな顔は、快感を我慢しているのだろう。我慢なんてしなくていいんだよ、もっと気持ちよくなれよ。そう言うとノイは目を細め、泣きそうな顔でうなずき、喘ぎ声を出し始めた。可愛い声だ。もっとよがらせてやりたくなる。おれの汗がノイの顔にしたたり落ちる。

今、国境も言葉も越えて二人は繋がっている。その事実が、摩擦の快感に温度を足してくれる。ノイの中に何度も精を放ち、俺はノイを抱きしめてベッドに沈んだ。

 

行為の後もおれはノイの頭を撫で続けた。離れたくなかった。しばらくそうしていると、彼女は甘い声でささやいた。

「いつ、日本に、帰るの?」

やっぱりこういうことを聞くんだな。おれは「明日」と答えて天井を仰ぎ見た。「きっとまた来るよ。すぐに」そう付け加えて、おれは勝手に納得した気持ちになって眠くなり、携帯のアラームをかけて眠りに落ちてしまった。




目が覚めるとノイは居なかった。一瞬疑ったが、財布の中身は無事だ。念のためセキュリティボックスに貴重品を預けてからバーに出かけていたのだ。しかし財布の中のタイバーツ(タイの通貨)もまったく手がつけられたようすが無い。枕元には「ありがとう」の英語とメールアドレスが書いてあった。別れ際までなんて可愛い女だと思った。


荷物を整理し、空港に向かう。余裕を持ってホテルを出たので、スーツケースを預けたら何か食って、みやげを買って帰ろう。



予定通り早めにスーツケースを預け、手荷物チェックを受ける。ここを抜けたら搭乗口近くで何を食おうか…そんなことを考えていると、まとまった数の足音が聞こえる。人が集まってくるのが感じられた。何だ? 何が起こったんだ? 集まってくるのは警官風の男、それにスーツ姿の男。やつらが群がって掴みあげたのは……おれのカバンだった。

おれは何も…と言おうとしたが、それより先に両脇を男につかまれた。足が地につかないくらい力ずくで「別室」におれは連れて行かれた。「別室」での尋問は震えるほど恐ろしいものだった。言葉のわからない国で罪に問われるというのは、これほどまでに恐ろしく、震え上がるものなのかと思い知った。



……おれのカバンに覚醒剤が入っていた。丁寧に、風邪薬などをしまっているピルケースに小さな袋を紛れ込ませてあった。おれの知らないうちに誰かが入れたのだろう。誰か、というのは言うまでもない、ノイだ。後から面会に来た日本人に聞いたところ、どうやらおれは彼女を怒らせたようだった。彼女のことをいやらしい視線でさんざん嘗め回し、セックスは乱暴で身勝手だったというのだ。「わたしのからだはおもちゃじゃない、敏感な部分を強く擦られたり、挙句無理やり挿入してきた。声を出せとか要求されて気持ちが悪かった」というのが彼女の弁らしかった。そして、あれだけ好き放題したのだから、チップははずんでくれるものだと思っていた。それがあろうことか、「相場」といわれる金額しか渡してこない。なんて非常識な日本人だろうと思った、と。

「でも仕方ないわね、タイに覚醒剤と女を求めてやってきたキ○ガイだったのよね」

彼女はそう締めくくっていたそうだ。


彼女みたいな女は、自分にどれだけの価値があるかを知っている。自分に敬意を払う男には今回のような悪戯はしない。やることだけやってすぐに眠ってしまったおれに、彼女なりの制裁を下したのだ。


タイの警察は「密告者」に報酬を出す。ノイはおれの覚醒剤所持を密告したことでいくらかの報酬を受け取ったことだろう。おれに対する報復としては充分なものであったに違いない。そしておれは「覚醒剤所持・密輸」の罪で拘束の身だ。これから刑務所に入ることになるらしい。何人かの日本人が面会に来てくれて話してくれたが、これはよくある手口の冤罪らしかった。おれはまんまと騙されたわけだ。おれはきっと刑務所に入る。そして、出所後はタイに入国することはできなくなるらしい。あの日の朝、ノイが書いてくれていたメールアドレスは本物だったのだろうか? それとも、あれすらも空港までおれを騙すための手口だったのだろうか? 

正直もうどうでもいい。おれはしばらく日本には戻れない。会社にももう戻れないだろう。起業の夢もほぼ、消えたと思っていいだろう。


行きの飛行機の中では、こんな結末は予想だにしていなかった。おれは一体何をしているんだ。毎晩毎晩女を買い、自分勝手に振舞っていただけだった。彼女達が笑顔を見せてくれるから、何でも許されるものだと思い込んでいた。セックスの時だって、いやな思いをさせていたなんて思いも及ばなかった。

後悔先に立たずとはこういうことを言うのか。

これからおれは気候も食事も言葉も慣れぬ異国の地で受刑者となる。日本は「更正」を目的として服役するが、タイでは「懲罰」として服役することになるから覚悟しておくように、と言われた。


おそろしい刑務所の中のようすを思い浮かべたおれは、失禁し、次の瞬間気を失った。


☆おわり☆


 

あおげばとうとし

 

  

 

あおげばとうとし

 


恩師と呼べる人を、何人思い出せるだろうか? 


わたしは学生時代のほとんどを無駄に過ごしてきた。中途半端にガラス窓を割ったり、他の子がテスト勉強しているのを小ばかにして、うすら笑いで過ごしてきた。本当の馬鹿はわたしの方だったのだと気づいたのは、20代も後半を過ぎてからのことだった。


いい大学を出ていないと就けない職業があるということ、学歴フィルターというものが存在していること、わたしが転職サイトに登録をしても、よくて時給1200円の「データ入力」のような仕事しか来ないということにやっと気づいたんだ。



それでもわたしはまだラッキーだったと思う。勉強が嫌いじゃないから。わたしは学歴こそないけれど、勉強自体は嫌いじゃない。本を読むのも大好きだ。太宰治の命日である六月十九日の桜桃忌には毎年、手を合わせて黙祷する。


わたしをバカ以下の最底辺の淵から救ってくれたのは、高校三年のときの担任。地理の授業を受け持つ、初老の男性教師だった。地域一のバカ女子高でこんなこと教えて何になるんだって、高三のわたしはその日も、うすら笑いで授業を聞き流してた。


チャイムの音が授業の終わりを告げ、世界地図をたたんで教壇から下りた担任がわたしの方に向かって笑いかけてきた。挑戦的な笑みだったので、思わずわたしは
「何ですか?」
と教師に食いついた。

「お前、暇そうだな。勉強しろ。地理だけでいいからよ、次のテストで学年一番取ってみろよ。一応担任だから、自分のクラスから一番出ると嬉しいんだよ。だからお前が勉強するのは俺の教科、地理な。」
アンパンマンのようにふっくらとした教師の顔は、途中から不適な笑みへと変化していた。何をたくらんでいる? 担任よ。


今まで親にも勉強することを求められたことはなかった。女の子は早いうちが「売れる」から、高校を卒業したらすぐにお見合いをしなさいと言われていた。高校時代のアルバイトは「かわいらしい」雰囲気のものがいいから、ケーキ屋にしなさいと言われたのでケーキ屋で働いていた。(実際そのケーキ屋のバイトで得たものは、レジの小銭をくすねることだけだったのは口が裂けても言えないここだけの秘密だ)


戦いの火蓋は切って落とされた。担任の無謀で身勝手な要求。何の書面もないけれど、これはわたしと担任の戦いだ。地理一教科なら絶対できる。一番を取るにはどうしたらいいか? そんなのは簡単だ。100点を取ればいい。100点を取るにはどうしたらいいか? テストの範囲を調べ、その範囲をすべて丸暗記してしまえば良いのだ。なんか燃える。

地理のテストの出題範囲は想像していたよりも狭かった。しかし基礎知識が無い頭に久しぶりの勉強は、こたえた。ユーラシアというのが国の名前なのかどうかもわからない。わからないことだらけだ。この戦いは前途多難に思えた。出題範囲を聞いても意味がわからない。すぐにやめたくなった。少しやってみてだめだったらやめよう。とりあえず教科書を開いた。

地図を見るのは楽しかった。まず地図を絵本を読むみたいに眺めてみた。ハワイとグアムの位置がわかった。中国と韓国の位置がわかった。アメリカとメキシコの位置がわかった。位置がわかるとどんな国かを知りたくなる。教科書に載っている運河や川、それぞれの位置が頭の中にどんどんイメージされていく。頭の中の世界地図にピラミッドや遺跡が置かれていく。気分は世界旅行だ。

アフリカ大陸だけはぜんぜん頭に入ってこなかった。全部おなじイメージしかわいてこないのだ。背の低い植物と、サバンナ。そして芋ばかり食べる人々というイメージ。仕方がないからアフリカだけは丸暗記で乗り越えようと思った。

「地理って楽しいじゃん! これ絶対やったほうがお得!」

何がお得なのだかわからないが、こんなことを言いながら毎日勉強していた。家に帰ってしまうと勉強より花嫁修業しろとか言われて邪魔が入るので、ぎりぎりまで学校に残って勉強をした。教室で一人のときが多かったが、わたしの突然変異に興味を示したクラスメイトが一緒に残ることもあった。彼女もまた、高校を卒業したら結婚しろといわれており、未来に希望が持てないということを、勉強の合間の雑談で知った。

ペンの走る音、頭を上げるとクラスメイトの勉強する姿、今日の残り時間を告げるオレンジの夕陽。わたしは人生ではじめて「学校が楽しい」と思った。いいじゃん、勉強。いいじゃん、友達。ああ恥ずかしい。でも、こんな気持ちは初めてだ。胸のおくがつんとなる。わたしが生きていることを自慢したくなる気持ち。




テストの当日はすごく緊張した。うっかりミスで一問でも間違えたら100点が取れない。確実に見直しをすることが必要だ。わたしは大切なものを扱うように問題用紙に触れ、回答用紙に名前を書いた。戦いのゴングが鳴り響いた。




☆☆☆




テストの結果を返す日になった。担任は順番にテストを返していく。わたしの番になったとき、ニヤリとしながら
「惜しかったな」
と言った。


回答用紙には、98点と書いてあった。一問、たった一問、ケアレスミスをしてしまっていた。苦手なアフリカの問題ではなく、簡単な選択問題で違う番号を選んでしまっていた。完全なる凡ミス。頭がまっくらになった。これじゃだめなのに…

そのすぐ後に、各教科の学年順位が書いてある細い紙が配られた。どうでもいい気持ちで紙を見ると、地理のところに「1」と書かれていた。あれ? 98点でも一番ってありえるの? 一緒に勉強したクラスメイトのところに行くと、彼女は地理で85点を取り、学年で18番だったと誇らしげだ。わたしの「1」を見せると

「すっげー! 学年一位じゃん!」

と大きな声を出した。何が? 何が? と一瞬クラスは騒がしくなったが、すぐに担任が席に着くよう指示を出した。

「今回のテストは、このクラスから地理の学年一位が出た。職員室で自慢できるよ。じゃあ授業始めるぞ」
手短に言われただけだったが、わたしは胸の奥が高鳴るのを感じていた。一番が手に入った。

さらに、地理の勉強はテストの数日前に終わってしまい、やることがなくなってしまったので、化学も少しだけ勉強していたのだが、それも実を結んだ。化学の教師に何度か質問に行ったりした。さすがに一番でこそなかったけれど、いつもの学年300人中288番くらいの情けない成績ではなく、120番くらいになっていた。


普段勉強をしていない生徒にも、勉強するチャンスを与えてくれた担任。気まぐれに質問に行っても、いやな顔ひとつせず丁寧に丁寧に教えてくれた化学の教師(この人も初老とまではいかないけれど、おじさんだ)、この二人をわたしは心から尊敬することができた。


「教師になってみたい」


地理と化学の教師にそう伝えると、ふたりは大喜びしてくれた。「いやあ、嬉しいなあ」と笑いあってくれた。担任の行動は早く、今からでも入試に間に合う、教育学部のある大学をいくつか見つけてくれた。
「本当は浪人して予備校行ってもいいんだがな…」
そんなことまで言ってくれた。浪人して予備校…勉強だけをする日々を想像させてくれただけで充分だった。「予備校」の言葉を聞いたときには、不覚にも泣きそうになった。学ぶことは、自由になることなんだと思った。



結局、親はわたしの大学進学も教師になる夢も認めてくれなかった。お嫁さんにならないのなら出て行けと言われた。

高校卒業と同時にわたしは上京してフリーターになった。ただし、勉強も両立させる。夜間の短期大学へ通うことを決めた。昼間は働いて家賃と学費、生活費を稼ぎ、夜は学校へ行く。学校は週6日きっちり授業があり、夏と冬に集中講座がある。それをきちんと受ければ卒業時には教員免許がもらえるのだ。

また新しい戦いの火蓋が切って落とされた。しかし今回の戦いの火蓋は、自分で切って落としたのだ。前回より長く、つらい戦いになるだろう。でも、きっとやれる気がする。


☆☆☆


二年間の戦いを終えたわたしは、ぼろきれみたいになっていた。仕事と学校のハードスケジュールに身なりは乱れ、不規則な生活から、太っているのに顔だけやつれていた。アルバイト先は人を使い捨てるようにこき使うし、大学生のアルバイト仲間は、わたしのことを「夜学に通ってるんだって」「なんで夜学なんだろうね? しかも頭悪いんでしょ?」と陰口をたたいていた。学校があるからと飲み会に行かず、ゼミやサークルといった言葉も知らないわたしは、彼女たちにとっては同じ「大学生」ではなかったのだ。


勉強がすきになっていただけに「頭が悪い」「低学歴」の言葉はほんとうに痛かった。すきなことで結果を出せないことは、こんなに悔しいんだと実感した。学歴コンプレックスで後ろ向きな時期もあったし、悔しくて友達すらつくらない時期もあった。

そして、あんなにやりたかった教育の仕事だが、勉強を教える才能はまったく無かった。教育実習でそれは明確になった。人に道すら説明できないわたしが、勉強を教えるのが上手なわけがないのだ。学童保育の仕事や水泳教室の仕事も試したが、やはり向いていないことがわかり、わたしは方向転換をした。自分にできる仕事に出会えるまで転職を繰り返す覚悟を決めた。


わたしの才能は意外なところにあった。肉体労働でも文句を言わず、販売ノルマをものともしない図太さであった。わたしは家電量販店の仕事を始めた。

まさか自分が接客をするなどと思っていなかったが、自分がいいと思った商品を熱をこめて勧めるのは気持ちがいい。コツをつかめてからは、お店が売って欲しい商品をうまく販売することもできるようになった。売れた商品はお客様の車まで運ぶこともある。力仕事だが、毎日が楽しかった。

最初はデスクトップパソコンのコーナーで働いていたが、地デジ特需によってテレビコーナーに異動になった。ふだんテレビを観ないわたしは商品のことを覚えるのが大変だったが、何事も「スペック」と「他との差別化ポイント」をおさえておけば大丈夫だ。テレビの仕事もできるようになったある日、わたしはその週の土日だけ別店舗のヘルプに行ってくれと頼まれた。

その店舗は、わたしの通っていた高校の近くだった。東京から電車で一時間半。ちいさな「上京」からすでに十年が経っていた。二日間のヘルプも無事に終えられそうな日曜の午後四時。テレビ売り場に白髪のおじいさんと息子らしきおじさんが来て、通り過ぎていく。

おじいさんの顔を見た瞬間わたしは、あっと声をあげて追いかけた。

「先生!」

おじいさんは、忘れもしない高校三年のときのわたしの担任だった。わたしの胸にこの十年がよみがえる。つらいときも苦しいときも悔しいときも、わたしを支えてくれたのはあの「一番」だった。やればできるんだから。自分にそう魔法をかけて、前に出て行けるようになったのはあの「一番」のおかげだった。


「…お前、こんなところで何してんだ?」

ニヤリと先生は笑った。息子らしいおじさんが、先生を抱えるようにして帰るように促した。先生は、少し、ぼけているようだった。でも今、はっきり「お前」って言ってくれた。先生は、やっぱり先生だ。どんなふうになっても、わたしは先生を尊敬しているし、一生涯忘れることのできない恩師だ。

 

教師にはならなかったけれど、わたしは自分の足で自分の人生を歩いているよ。いつか先生のことを誰かに話して、わたしも先生のように誰かの心を自由にしてあげたい。


わたしの頭の芯の、一番大事な部分にたからものをくれた先生。わたしの人生に「挑戦する心」と「どうやったらできるか」を考えるきっかけをくれた先生。

心の中に延々と流れる「あおげばとうとし」を止めることができないまま、わたしは残りの勤務時間もテレビを販売し続けたんだ。


☆おわり☆

 

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甘やかな異空間



こんにちは。お題にもとづいた小説を更新します。


今週のお題「海外旅行」

 


甘やかな異空間


わたしは「旅行」という言葉が嫌いだった。旅行=集団行動だと思っていたから、なるべく行かないようにしていた。「リョコウ」「ノミカイ」「コンシンカイ」「コウリュウ」はわたしの人生から排除すべき存在であった。それでも、避けがたいリョコウの機会がやってきた。

会社の社員旅行(景気が良すぎたのでバイトのわたしまで連れて行かれたのだ)でアメリカ、ラスベガスに連れていかれた。このときは完全なパックツアーだった。もう息苦しくてつらくて、どうやって逃げ出すかばかりを考えていた。集団から離れ、少しでも一人で過ごす時間を作ることに専念していた。

「若いのに、暗い」ととんちんかんな評価をわたしにくれる社員たちとは、一緒にいたくなかった。わたしはたぶん、あなたたちの誰よりも明るいはずだ。一人でいるときは。

親のすすめで入った会社は、そこそこ優良企業だと評判のようだが、わたしの目にはハキダメのようにしか見えなかった。


ラスベガスの夜。わたしはホテルに帰ってからひとり、部屋を抜け出した。ホテルの近くにコンビニとバス停があった。うす暗いラスベガスの街のそこだけ喧騒を逃れたような場所。わたしはバスに乗る予定もないのに、コンビニでコーラを買い、バス停の待合イスに座った。

オレンジ色の空に黒い影がおちるラスベガスの夕暮れ。


待合イスには先客がいた。70は超えているであろう初老の男性。彼はわたしが腰掛けて深呼吸したころあいで話しかけてきた。英語は宇宙語のように聞こえた。その言葉はまったく理解できなかった。それを理解したのか、彼は「ジャパン」「ハウ オールド」などの簡単な言葉を並べる作戦に切り替えた。

頭の中に眠っていて、一度も使ったことがない英語というものを、人生で初めて使う機会がやってきた。ツアーで社員旅行なんてしていても、英語は使う機会がない。この初老の男性が、おそらくわたしが人生で初めて英語で会話をした相手ということになる。

手に持っているコーラも話のたねになった。わたしはホテルから逃げてきたこともぜんぶ話してしまいたかったが、それを話すだけの英語は知らなかった。ぬるくなったコーラで「伝えたいのに伝わらない」もやもやした気持ちを流そうとした。

赤子を相手にするような彼との優しい会話は続いた。バスはちっとも来る気配が無い。もしかしたらこのバス停にはバスは来ないんじゃないかと思った。それに気づいた瞬間、その場所そのものがリョコウとか日常とかからパツンと切り離された異空間のように感じて、すこしこわくなった。わたしは赤子のような英語で彼に「バイバイ」と彼に告げてホテルに戻った。異空間からホテルまでの道のりは、記憶からすっぽり抜けているかのように、見事におぼえていない。



ホテルに戻ったら、みんながわたしを探していた。コーラのビンを持っているのを見つかり、「コーラが欲しいならわたしに言ってください!」とツアー担当者らしい人が目を吊り上げていた。違うんだよ。わたしが欲しいのはコーラじゃない。あの時間だったんだよ。わからないかなぁ。わからないよなぁ。ふふふ。

「何笑っているの? 添乗員さん心配してくれたのよ? コーラはお部屋の冷蔵庫にも入っているじゃない」
社員の女性がわたしに詰め寄る。冷蔵庫のコーラとあのコンビニで買うコーラの味が違うことをこの人は知らない。コーラを手に入れるまでのプロセスが楽しくてコーラを買ったこともこの人はわからない。言ってもわからないなら一生言わなくていい。この件はもうこれでいい。

わたしは「理解能力が低い」とみなされたようで、その日から「ここに、30分後!」とわたしにだけ添乗員の念押しが入るようになった。馬鹿扱いされるのは慣れているので、その念押しを耳が痛いふりをして、聞こえていないふりをした。添乗員のイライラがMAXに到達するのを見るのは、それはそれでおもしろいことのように思えた。このくそつまらない社員旅行に足を運んでやったのだから、少しは面白いものを見せろよ。仕事だろ?



その後もアメリカでは、Tシャツ売りのおじさんとハーレーダビッドソンのTシャツについて英語で話してもらってその響きを楽しんだり(英語は音としておもしろい)、知っている単語が聞き取れるという事実を手探りでみつけて喜び、社員リョコウは終わった。

やっぱり旅行はつまらないなと思った。当時の常識として、女は一人で旅行するものではないという風潮があった。一人旅は自殺と思われるから泊めてくれないなんていう常識さえ、わたしの住む片田舎ではあった。

息が詰まる日常を苦虫を噛み潰した顔でただこなしていく。

刺激が欲しいけどもうあのバス停にはいけない。わたしは日本から出られないことを前提に、あのバス停みたいな異空間を探し回ったんだ。




やっとみつけたそこは、オレンジの夕暮れじゃなく、薄暗いラブホテルだった。

そこは男性が女性をお金で買う、異空間。初めて会う男性に、望まれれば生殖器を見せたり、触らせたりする場所だ。からだへの刺激は充分すぎるほどに毎日もらえる。刺激をもらって反応しない女性は人気が出ない。刺激をもらったら、本能のままに感じればいい。気持ちよくさせてもらった分だけ男性にきちんとお返しをすればいい。まだまだ心への刺激は足りない気がしたけど、体への刺激は充分だった。

もう二度と、一日同じ人と仕事をする「会社」で働きたくない。わたしは、自由がほしいんだ。だからここで体に充分すぎる刺激がもらえる仕事をする。絶頂に達する瞬間、そして男性を絶頂に導けた瞬間、わたしのこころは誰よりも自由によろこび、生命の意味をかみしめている気持ちになった。


あのバス停の老人は、いまのわたしを見たらなんて言うだろうか。


あのときのわたしは、たぶん10代に見えただろう。「オフィスワーク」という言葉で、わたしがもう働いていることを知った彼は少し驚いていたな。今のわたしはオフィスワークじゃないよ。セックスワークだ。この世のどうしようもない部分を集めたような場所がわたしのお気に入りだ。

この世の中には、どうしようもない人がどうしようもなくて集まってくる場所があるんだ。その場所を大人は「絶対に行ってはだめ」「あんな場所にいく必要はない」というタブーを表現するとき特有の、わかりにくい表現で表した。

誰も、「どうしてあの場所に行ってはだめなのか」を教えてくれなかったから、震える手で電話をかけて、震えるからだで初めての仕事をして、そうやってこの場所がどんな場所なのかを「からだで」覚えていった。


仕事場へ向かうときは電車を使ったが、帰り道はバスを使った。何人もの男の欲望を受け取って自分の中で浄化する作業は、ひとりでするのがいい。だから帰りはバスだ。ひとりでバス停に座ってバスを待ち、じっと何も考えずにそこにいる。流れる景色は無常にとおりすぎていく。夕刻のバス停。こどもの手を引くおかあさんや学生、まだこれから会社に戻るようすのサラリーマン。

バスが来る。3段あるステップをむりに履いているミュールでふみこえ、バスの中に入る。そこはまた異空間が広がっている。一番後ろの席にすわって、ふりかえる。バスを掃除する道具がある。いつもとおなじだ。窓越しの街はさっきとかわらない。日常を、日常として受け入れている人たちの群れ。


対するわたしは、きょう一日で絶頂に達した回数を頭の中でぼんやり考えている。わたしは本気で絶頂を迎えている(演技をしない)から、一日で10回以上絶頂に達することがある。その瞬間を見るのがすきだという常連さんもいる。今日はたしか6回絶頂を迎えた。どの瞬間も頭の中で花火が上がるように激しく、快感にふるえていた。今こうして思い出しても、どの瞬間も最高だった。初めて会う男性を本気で愛せることは、才能のひとつだと思った。

今のわたしは、快感狂いかもしれない。どこか、おかしくなっているのかもしれない。

 

もしもあのとき、あのバス停に行かなかったら、わたしは日常を日常として受け入れられていたのだろうか? それとも別の異空間が、また別の機会にわたしを手招きしたのだろうか? 

考え始めたが、やめた。わたしには今の生き方がすべてだ。つまらない繰り返しはひとつとしてなく、刹那の優しさで人を癒すこの仕事が大好きだ。こんな素敵な仕事があるなんて大人は誰も教えてくれなかった。そうか、高収入で楽しい仕事だから、みんな誰にも教えたくないんだね。ふふふ。

バスはゆっくりと走り出し、仮の住まいとしているわたしのアパートに向かって少しずつ前に進んでいく。帰りにスーパーで納豆と卵とりんごを買おう。たべるものは最小限でいい。余分に買うのは美しくない。明日出勤したらあさっては休みだ。日帰りで温泉に行こう。最高のコンディションで男の人を癒すのがわたしの仕事なのだから。

わたしの心はこれ以上なく平和であたたかかった。毎日からだに与えられる甘やかな刺激と、毎日心に与えられる定期的な緊張と弛緩で、わたしをつつむ世界は夕焼けの色そのものの、美しいオレンジだった。


☆おわり☆


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