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novelsのブログ

お題にもとづいた短編小説やふと思いついた小説を不定期更新します

あおげばとうとし

 

  

 

あおげばとうとし

 


恩師と呼べる人を、何人思い出せるだろうか? 


わたしは学生時代のほとんどを無駄に過ごしてきた。中途半端にガラス窓を割ったり、他の子がテスト勉強しているのを小ばかにして、うすら笑いで過ごしてきた。本当の馬鹿はわたしの方だったのだと気づいたのは、20代も後半を過ぎてからのことだった。


いい大学を出ていないと就けない職業があるということ、学歴フィルターというものが存在していること、わたしが転職サイトに登録をしても、よくて時給1200円の「データ入力」のような仕事しか来ないということにやっと気づいたんだ。



それでもわたしはまだラッキーだったと思う。勉強が嫌いじゃないから。わたしは学歴こそないけれど、勉強自体は嫌いじゃない。本を読むのも大好きだ。太宰治の命日である六月十九日の桜桃忌には毎年、手を合わせて黙祷する。


わたしをバカ以下の最底辺の淵から救ってくれたのは、高校三年のときの担任。地理の授業を受け持つ、初老の男性教師だった。地域一のバカ女子高でこんなこと教えて何になるんだって、高三のわたしはその日も、うすら笑いで授業を聞き流してた。


チャイムの音が授業の終わりを告げ、世界地図をたたんで教壇から下りた担任がわたしの方に向かって笑いかけてきた。挑戦的な笑みだったので、思わずわたしは
「何ですか?」
と教師に食いついた。

「お前、暇そうだな。勉強しろ。地理だけでいいからよ、次のテストで学年一番取ってみろよ。一応担任だから、自分のクラスから一番出ると嬉しいんだよ。だからお前が勉強するのは俺の教科、地理な。」
アンパンマンのようにふっくらとした教師の顔は、途中から不適な笑みへと変化していた。何をたくらんでいる? 担任よ。


今まで親にも勉強することを求められたことはなかった。女の子は早いうちが「売れる」から、高校を卒業したらすぐにお見合いをしなさいと言われていた。高校時代のアルバイトは「かわいらしい」雰囲気のものがいいから、ケーキ屋にしなさいと言われたのでケーキ屋で働いていた。(実際そのケーキ屋のバイトで得たものは、レジの小銭をくすねることだけだったのは口が裂けても言えないここだけの秘密だ)


戦いの火蓋は切って落とされた。担任の無謀で身勝手な要求。何の書面もないけれど、これはわたしと担任の戦いだ。地理一教科なら絶対できる。一番を取るにはどうしたらいいか? そんなのは簡単だ。100点を取ればいい。100点を取るにはどうしたらいいか? テストの範囲を調べ、その範囲をすべて丸暗記してしまえば良いのだ。なんか燃える。

地理のテストの出題範囲は想像していたよりも狭かった。しかし基礎知識が無い頭に久しぶりの勉強は、こたえた。ユーラシアというのが国の名前なのかどうかもわからない。わからないことだらけだ。この戦いは前途多難に思えた。出題範囲を聞いても意味がわからない。すぐにやめたくなった。少しやってみてだめだったらやめよう。とりあえず教科書を開いた。

地図を見るのは楽しかった。まず地図を絵本を読むみたいに眺めてみた。ハワイとグアムの位置がわかった。中国と韓国の位置がわかった。アメリカとメキシコの位置がわかった。位置がわかるとどんな国かを知りたくなる。教科書に載っている運河や川、それぞれの位置が頭の中にどんどんイメージされていく。頭の中の世界地図にピラミッドや遺跡が置かれていく。気分は世界旅行だ。

アフリカ大陸だけはぜんぜん頭に入ってこなかった。全部おなじイメージしかわいてこないのだ。背の低い植物と、サバンナ。そして芋ばかり食べる人々というイメージ。仕方がないからアフリカだけは丸暗記で乗り越えようと思った。

「地理って楽しいじゃん! これ絶対やったほうがお得!」

何がお得なのだかわからないが、こんなことを言いながら毎日勉強していた。家に帰ってしまうと勉強より花嫁修業しろとか言われて邪魔が入るので、ぎりぎりまで学校に残って勉強をした。教室で一人のときが多かったが、わたしの突然変異に興味を示したクラスメイトが一緒に残ることもあった。彼女もまた、高校を卒業したら結婚しろといわれており、未来に希望が持てないということを、勉強の合間の雑談で知った。

ペンの走る音、頭を上げるとクラスメイトの勉強する姿、今日の残り時間を告げるオレンジの夕陽。わたしは人生ではじめて「学校が楽しい」と思った。いいじゃん、勉強。いいじゃん、友達。ああ恥ずかしい。でも、こんな気持ちは初めてだ。胸のおくがつんとなる。わたしが生きていることを自慢したくなる気持ち。




テストの当日はすごく緊張した。うっかりミスで一問でも間違えたら100点が取れない。確実に見直しをすることが必要だ。わたしは大切なものを扱うように問題用紙に触れ、回答用紙に名前を書いた。戦いのゴングが鳴り響いた。




☆☆☆




テストの結果を返す日になった。担任は順番にテストを返していく。わたしの番になったとき、ニヤリとしながら
「惜しかったな」
と言った。


回答用紙には、98点と書いてあった。一問、たった一問、ケアレスミスをしてしまっていた。苦手なアフリカの問題ではなく、簡単な選択問題で違う番号を選んでしまっていた。完全なる凡ミス。頭がまっくらになった。これじゃだめなのに…

そのすぐ後に、各教科の学年順位が書いてある細い紙が配られた。どうでもいい気持ちで紙を見ると、地理のところに「1」と書かれていた。あれ? 98点でも一番ってありえるの? 一緒に勉強したクラスメイトのところに行くと、彼女は地理で85点を取り、学年で18番だったと誇らしげだ。わたしの「1」を見せると

「すっげー! 学年一位じゃん!」

と大きな声を出した。何が? 何が? と一瞬クラスは騒がしくなったが、すぐに担任が席に着くよう指示を出した。

「今回のテストは、このクラスから地理の学年一位が出た。職員室で自慢できるよ。じゃあ授業始めるぞ」
手短に言われただけだったが、わたしは胸の奥が高鳴るのを感じていた。一番が手に入った。

さらに、地理の勉強はテストの数日前に終わってしまい、やることがなくなってしまったので、化学も少しだけ勉強していたのだが、それも実を結んだ。化学の教師に何度か質問に行ったりした。さすがに一番でこそなかったけれど、いつもの学年300人中288番くらいの情けない成績ではなく、120番くらいになっていた。


普段勉強をしていない生徒にも、勉強するチャンスを与えてくれた担任。気まぐれに質問に行っても、いやな顔ひとつせず丁寧に丁寧に教えてくれた化学の教師(この人も初老とまではいかないけれど、おじさんだ)、この二人をわたしは心から尊敬することができた。


「教師になってみたい」


地理と化学の教師にそう伝えると、ふたりは大喜びしてくれた。「いやあ、嬉しいなあ」と笑いあってくれた。担任の行動は早く、今からでも入試に間に合う、教育学部のある大学をいくつか見つけてくれた。
「本当は浪人して予備校行ってもいいんだがな…」
そんなことまで言ってくれた。浪人して予備校…勉強だけをする日々を想像させてくれただけで充分だった。「予備校」の言葉を聞いたときには、不覚にも泣きそうになった。学ぶことは、自由になることなんだと思った。



結局、親はわたしの大学進学も教師になる夢も認めてくれなかった。お嫁さんにならないのなら出て行けと言われた。

高校卒業と同時にわたしは上京してフリーターになった。ただし、勉強も両立させる。夜間の短期大学へ通うことを決めた。昼間は働いて家賃と学費、生活費を稼ぎ、夜は学校へ行く。学校は週6日きっちり授業があり、夏と冬に集中講座がある。それをきちんと受ければ卒業時には教員免許がもらえるのだ。

また新しい戦いの火蓋が切って落とされた。しかし今回の戦いの火蓋は、自分で切って落としたのだ。前回より長く、つらい戦いになるだろう。でも、きっとやれる気がする。


☆☆☆


二年間の戦いを終えたわたしは、ぼろきれみたいになっていた。仕事と学校のハードスケジュールに身なりは乱れ、不規則な生活から、太っているのに顔だけやつれていた。アルバイト先は人を使い捨てるようにこき使うし、大学生のアルバイト仲間は、わたしのことを「夜学に通ってるんだって」「なんで夜学なんだろうね? しかも頭悪いんでしょ?」と陰口をたたいていた。学校があるからと飲み会に行かず、ゼミやサークルといった言葉も知らないわたしは、彼女たちにとっては同じ「大学生」ではなかったのだ。


勉強がすきになっていただけに「頭が悪い」「低学歴」の言葉はほんとうに痛かった。すきなことで結果を出せないことは、こんなに悔しいんだと実感した。学歴コンプレックスで後ろ向きな時期もあったし、悔しくて友達すらつくらない時期もあった。

そして、あんなにやりたかった教育の仕事だが、勉強を教える才能はまったく無かった。教育実習でそれは明確になった。人に道すら説明できないわたしが、勉強を教えるのが上手なわけがないのだ。学童保育の仕事や水泳教室の仕事も試したが、やはり向いていないことがわかり、わたしは方向転換をした。自分にできる仕事に出会えるまで転職を繰り返す覚悟を決めた。


わたしの才能は意外なところにあった。肉体労働でも文句を言わず、販売ノルマをものともしない図太さであった。わたしは家電量販店の仕事を始めた。

まさか自分が接客をするなどと思っていなかったが、自分がいいと思った商品を熱をこめて勧めるのは気持ちがいい。コツをつかめてからは、お店が売って欲しい商品をうまく販売することもできるようになった。売れた商品はお客様の車まで運ぶこともある。力仕事だが、毎日が楽しかった。

最初はデスクトップパソコンのコーナーで働いていたが、地デジ特需によってテレビコーナーに異動になった。ふだんテレビを観ないわたしは商品のことを覚えるのが大変だったが、何事も「スペック」と「他との差別化ポイント」をおさえておけば大丈夫だ。テレビの仕事もできるようになったある日、わたしはその週の土日だけ別店舗のヘルプに行ってくれと頼まれた。

その店舗は、わたしの通っていた高校の近くだった。東京から電車で一時間半。ちいさな「上京」からすでに十年が経っていた。二日間のヘルプも無事に終えられそうな日曜の午後四時。テレビ売り場に白髪のおじいさんと息子らしきおじさんが来て、通り過ぎていく。

おじいさんの顔を見た瞬間わたしは、あっと声をあげて追いかけた。

「先生!」

おじいさんは、忘れもしない高校三年のときのわたしの担任だった。わたしの胸にこの十年がよみがえる。つらいときも苦しいときも悔しいときも、わたしを支えてくれたのはあの「一番」だった。やればできるんだから。自分にそう魔法をかけて、前に出て行けるようになったのはあの「一番」のおかげだった。


「…お前、こんなところで何してんだ?」

ニヤリと先生は笑った。息子らしいおじさんが、先生を抱えるようにして帰るように促した。先生は、少し、ぼけているようだった。でも今、はっきり「お前」って言ってくれた。先生は、やっぱり先生だ。どんなふうになっても、わたしは先生を尊敬しているし、一生涯忘れることのできない恩師だ。

 

教師にはならなかったけれど、わたしは自分の足で自分の人生を歩いているよ。いつか先生のことを誰かに話して、わたしも先生のように誰かの心を自由にしてあげたい。


わたしの頭の芯の、一番大事な部分にたからものをくれた先生。わたしの人生に「挑戦する心」と「どうやったらできるか」を考えるきっかけをくれた先生。

心の中に延々と流れる「あおげばとうとし」を止めることができないまま、わたしは残りの勤務時間もテレビを販売し続けたんだ。


☆おわり☆

 

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