読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

novelsのブログ

お題にもとづいた短編小説やふと思いついた小説を不定期更新します

いつか来たアメリカへ





こんにちは。今日はお題にちなんだ短編小説を書きます。
みじかく書く、が今日のテーマです。


今週のお題「海外旅行」




いつか来たアメリカへ


 わたしの両親は、アメリカに行く飛行機の中で知り合ったという。今からもう三十五年も前のこと、当時は海外旅行に行くなんてすごく「特別な」ことだったのだと両親は言う。

 初めてその話を聞いたのは小学生のとき。学校の作文で、おとうさんとおかあさんのことを書きなさいと言われて、喧嘩ばかりしていますとか、たまに離れて生活していますと書くのがいやで、なにか別のことを書こうと思って、初めて会った場所はどこ?   と聞いたのがきっかけだ。

「アメリカ旅行の、行きの飛行機の中でね、わたしと友達の塚本さんが並んで座っていたら、後ろの席から靴が前に滑ってきたの。あら、靴だわと塚本さんと笑って、後ろの席の人に返してあげたのよ。それがお父さん」

 父も友達と二人での旅行だったらしい。今考えると、同じツアー会社を申し込んだのだろうと察しが付く。しかし当時の両親にとっては、周りより一歩進んだ考え方を持って、同じような友人を探し、旅行を決行させたのだから、行動力のある人たちだったのだろうと思う。

 その後アメリカで、父と母とそれぞれの友人は意気投合し、一緒に行動したのだという。旅は人を開放的にさせるというが、本当にそうなんだと思った。そこから両親が結婚にいたるまでは、かなりスムーズだったという。


 しかしその後が大変だった。フランス料理のコックをしていた父は、自分の腕を磨くことを人生の信条としていた。娘のわたしから見ても、月に何日も休んでいないのがわかった。そして休みの日も、美味しいと評判のうなぎの店、焼肉、中華の店などを回るのだ。美味しいものを食べるための外出。それが我が家の「おでかけ」だった。

 父は感情の起伏の激しい人だった。調理場の仕事は女には無理(させたくない)、という気持ちからなのか、オムレツの作り方ひとつとっても、弟には教えるのに、わたしには教えてくれなかった。悔しいから父よりうまく作れるように、隠れて何度も練習をした。ある日の朝、父にオムレツを出したときはただ、唖然としていた。

 わたしは父が大嫌いなのに、父の料理をする姿は美しいと思った。世の中にたくさんある仕事の中で、コックという仕事を特別に尊敬するようになっていた。
 
 わたしが小学生のときは、父と母はよく喧嘩をしていた。父が家で料理をすると、必ず母に暴力的な言葉を浴びせ、「こんなフライパンでうまい肉が焼けるか!」等、家庭は険悪な雰囲気になっていた。

   わたしが中学生になると、父と母は別々に暮らすようになっていった。「父が単身赴任」というのが外向けの理由だったが、あのとき父と母の間には埋めようの無い溝があったのだといまだに思っている。


 わたしは母と弟と三人で暮らすようになった。食卓には、母の料理だけが並ぶようになった。父のそれと比べると、母の料理は目立つところも特筆すべきところもなく、わたしは食に対する興味を失ってしまった。

   父への憧れからか、わたしが選ぶアルバイトはほとんど、料理をつくる仕事だった。パスタやオムライス、肉料理に魚料理。わたしは父ほどの才能こそ無かったが、料理の段取りだけは誰よりも早かった。父の料理をする姿を思い出すと、いつも無駄がない。わたしはそれを再現しようと、調理場では常に、料理という行為に敬意を持ってつくっていた。



 そんな実家を十八で出て自活を始め、やがて六歳年下の弟も実家を出た頃から、父と母の間で何があったのかわからない。わからないのだが、二人の間にやさしい空気が戻ってきた。何を埋めようとしたのかはわからないが、実家にはいつもたくさんの動物がいた。犬に猫、うさぎや亀もいた。たまに帰る実家は、そのたびにあたたかくなっているのがわかった。

 実家はたくさんの動物がいるわりに、いつもきちんと片付いている。家具はみすぼらしく見えてもおかしくないほど古いものばかりなのに、物がとても少ないからか、すっきりとした静謐すら感じさせる。服も洗い替えを考えた最小限のものしか持っていないようだ。その生活を、わたしは美しいと思った。

 実家の変化は料理にも現れていた。母の料理がとても美味しくなっていた。「適当につくっている」というが、きちんと出汁のとられている煮物は最高のおかずである。特にがんもどきは絶品で、口に含んだ瞬間、熱くてキュッと出汁のきいた煮汁が口中にじゅわっと飛び出してくる。塩分控えめで素材の味を生かした野菜のおひたしはすがすがしい季節の味がする。わたしにとっての「おふくろの味」は父の作ったバターたっぷりのシャリアピンステーキ(たまねぎをキツネ色になるまで炒めて醤油ベースのソースに仕上げてサーロインステーキにのせたもの)だったので、この食卓の様変わりには驚いた。

 父は「家では料理をしない」と言い切っていた。「お母さんの料理が充分おいしいから」と自然に言っていることに驚いた。長い時間をかけて歩み寄ったのだろうか。

 父の変化はそれだけではなかった。仕事をフルタイムからパートタイムに変えたと言っていた。コックの仕事は何十年もやると体を壊す、過酷なものだったのだろう。五十を過ぎたあたりから、父の脳や心臓には様々な疾患があらわれた。そのひとつひとつを、母と二人三脚で乗り越えてきたのだという。あるときの心臓の手術は八時間にも及んだが、そのとき母はずっと、ずっと手術室の前で待っていたという。その姿を思い浮かべるとき、わたしは二人の間に流れる空気の深さを思う。


 母の祈りが通じたのか、父は回復した。普通に食事ができるまでに。歩けるまでに。小旅行ならできるまでに。

 
 驚いたのだが、それから両親は二人で、いろんなところへ旅行に行くようになっていた。温泉に浸かりにいったり、ただふらっと東京へ来てみたり、二人の旅行がまた、あたらしいスタイルで始まっていった。

 旅から始まって、また旅へともどっていった両親。

 今は海外に行くのは難しいのかもしれないけれど、実はふたりが「世界一周旅行」のために貯金をしていたことをわたしは知っている。父の体調のよいときを見計らって行くつもりなのかもしれない。再びアメリカの大地に降り立ったとき、ふたりの間にどんな思いがよぎるのだろうか? 


 人生には、つらいこともあるけれど、それを乗り越えた後には計り知れない喜びがある。このことをわたしは両親から教えてもらった。不器用で短気で破天荒なところがあったかもしれないが、わたしの自慢の両親だ。

 いつかふたりでまたアメリカに行ってほしい。写真を見せてほしい。初めて行ったときとどんなふうに違った景色が見えたのか、それを聞くのが目下の楽しみだ。


☆おわり☆

f:id:keisolutions:20150624100514j:plain